運命に添って人気の鑑定
実家が国宝、観光コース
実家が福島県で唯一の国宝建造物でした。
平安時代末期に藤原清衛の娘・徳姫が建てた白水阿弥陀堂といいます。大僧正の祖父は、いつも近所の人たちの悩みを聞き、親身な対応で信頼を集めていました。
その言葉の数々を、まだ幼かった富岡ノリ子先生が、不思議と鮮明に覚えています。裕福なお嬢様は、幼心に「どうして世の中には恵まれた人と可哀想な人がいるのだろう」と、それが不思議で仕方がありませんでした。
小学2年生までは、ひとりでは何も出来ない子でした。朝から晩までおばあちゃんがつきっきり。授業も一緒に聞いて帰るほどだったからです。
「さすがに先生も、このままではいけないと思ったのでしょうね。ついに3年生になると、クラスで私に責任のある役割を与え、おばあちゃんにも“もうついて来ないでください”と言いました」
それから富岡先生は、活発でおしゃべり好きな女の子として成長し、なんとお寺のお嬢さんなのにキリスト教系の学校に進むのです。
「英会話の勉強がしたくて、ネイティブの先生に教えて欲しかったんです。祖父には面接では“どちらも祈る心は同じでございます”と答えるように言われました。必ず聞かれるから、って」
大学の英文科を卒業すると、外資系の会社に就職し、秘書として得意の英会話を活かして仕事に没頭しました。
「外資系なので、残業はなく、ホテル住まいで食事にも洗濯にも不自由しません。土日になれば、毎週のようにパーティーで、私たちは着物姿で世界中から集まって来る優秀なエンジニアの方々をお迎えしました。本当に楽しかったのですが、そんなところで働いていたら、おまえは一生結婚しないと、祖母に花嫁修業をさせられてしまいました」
結局25歳で結婚したので、華々しいOLライフは2年半と短命に終わりました。
プロの司会からシニアタレント
ひとつの転機が訪れたのは30歳の時でした。
「娘と息子が国立の有名付属小学校に進学し、PTAの実行委員長を任されてしまったのです。でも父兄は有名企業の社長から、ご両親とも医者や大学教授など、凄い肩書きのある方ばかりなんです。もうPTA総会を進行するにも震えますよ」
富岡先生は人前で話すために「江川ひろしの話し方教室」に通うことになります。
「初級から中級、さらに上級と進むにつれて、凄く楽しくなっていきました。そのうちに今度は先生が、結婚式のプロの司会養成講座を始めるんです。最初は誘われても“結構です”と断ったのですが、どうしても2人足りないから…と。結局友だちと一緒に6ヶ月コースを修了しました」
ただし講座を終えても、プロとして司会をする姿はまったく描けていません。
「福島県生まれの私には訛りがあり、いつも先生に“アクセントが違う”と注意されていたんです。だから主人も、おまえにやれるわけがない、って」
ところが力試しに受けてみた4つの会社には、すべて合格してしまいます。
「全部断りましたよ。でも次に茨城県のブライダル会社から依頼があったんです。まあ、茨城なら同じように訛っているからいいか、と年間1か月間の契約で3年間勤めました」
これで自信がついた先生は「婚礼司会者協会」に所属し、10年間司会業をこなします。
「ちょうど50歳の区切りを前に、主婦に戻ります、と自分から辞めました」
しかし司会業を退くとともに、ちょうど長女、長男が相次いで結婚。
「寂しくなって家でポカ~ンとされても困ると思ったのでしょう。娘が私の履歴書を適当に書いて、NACタレントセンターに送ったんです。私もドラマの現場を覗いてみたくて、通行人の役でもいいからやってみようかと…“いつみても波瀾万丈”(日テレ)“”あぐり“(NHK連続テレビ小説)”テレサテン物語“などで、小さな役を演じました。時代劇の舞台もありましたね」
そんな富岡先生を、突然不運が襲います。
「平成19年(2007年)元旦の朝でした。2階に向かって“パパ、おはようございますと挨拶したけれど、15分~20分経っても下に降りてこない。慌てて2階に行ってみると、もう主人の左半身が動きませんでした」
高山東明先生と出会ったのは、介護生活がひと区切りして、夫をデイサービスに預けられることになった頃のことでした。
「昔から手相には興味があったんです。20歳台の頃には、ごっそりと本を買い込んできたほどです。ちょうどNHK文化センターで“東明手相教室6回コース”があったので申し込みました。凄く人間味に溢れる講義を聞くことが出来ました。その時にすた~らいと林先生たちから“この仕事が向いているから、頑張ってみてはどうですか”と声をかけられたんです」
ご主人の介護があるので、富岡先生が受講できるのは週に1度が精一杯でした。
「まるで個人レッスン。先生を独占できるのだから、本当に贅沢で楽しい時間でした。でも介護があるので午後3時には失礼しなければなりません。さすがに仕事までは出来ないと1度は諦めたのですが、一緒に受講していたお友だちに、登録だけでもしておけば、と勧められたんです」
その後ご主人の介護の状況が少しずつ変化したこともあり、富岡先生は無事運命コンサルタントの資格を取得し、今では週に4日間は鑑定に出ています。
笑顔になっていただくために
「なんだかみなさんが、私に“この仕事をしなさい”と導いてくれたような気がします。祖父は本当に貧しい人たちに、分け隔てなく手を差し伸べていました。物のない時代です。自分たちの食べるものを少し分けてあげたり、当時タバコは大変貴重品だったのですが、最後の1本を渡してあげたりしていました。今でいう虐待にあって丸坊主にされて放り出された子供を助けたり、暴力行為にも及ぶ夫婦関係をなだめたりもしていました。だから私もご相談を受ける時は、おじいちゃんならどんなことを言っていたかな、と思い浮かべながら話しています」
東明総研で学ぶことで、幼少時の疑問が少しずつ解けていくような気がしました。
「手相が示す運命に適した生き方をしているかどうか。あるいはどんな星を持って生まれてきたのか。例えば、どんなに美人でスタイルが良くても、モデルになれて人気が出るとは限らないんです。美人ではなくても、人を魅きつけてもてまくる人もいます。また同じ日に生を受けても、育つ環境にも大きく左右されます。先日素晴らしい手相と星を持った方が見えました。でも生まれてからずっとご両親に、何から何まで否定され続けてきたので、せっかくの才能や運勢を活かせていませんでした。東明先生がおっしゃるように、私たちの仕事は幸せサポートです。どうしたら人生が好転していくのか。私の一言でニコーッと笑顔になられて帰っていただくのが何よりです」
ご相談者の心に寄り添い、丁寧な対応をされる富岡先生は、リピーターが多いことで評判です。予約の問い合わせが最も多いコンサルタントの一人でもあるのです。
「私の手相を見ると、運命線が月丘から、また太陽線は運命線から出発しています。故郷を離れて生きて、大衆に支えられて開運していくことを示しています。それに神秘十字線が出ているので、先祖にしっかり助けられていることもわかります。そしてどの線も晩年にいくほど、はっきりと出ています」
出演された番組のタイトル同様に波乱万丈な人生を送っていますが、実は天職を得られた今が、最も充実した時期だと感じています。