手相の基礎
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講座説明会

鑑定士物語

1991年創設以来、東明学院からは次々に素晴らしい運命コンサルタントが巣立っていきました。
東明のレジェンド(伝説)たちの数々の名鑑定や温かみのあるヒューマンストーリーをお楽しみください。

殿岡 晟子先生
殿岡 晟子先生

お嬢様は占いの達人

2016年08月25日更新

初任給に涙がボロボロ

仕事を始めたばかりの殿岡晟子先生は、鑑定を終えたお客さまから昼食に誘われました。しかしまだ鑑定希望者が長蛇の列を成しています。

「申し訳ありませんが、とてもご一緒出来る状況ではありません。お心だけ頂戴いたします」

殿岡先生が丁寧に断ると、お客さまは「それではあとで召し上がってください」と、3,000円を置いていかれました。せっかくの心づかいを無駄にするわけにはいきません。先生は仕事がひと段落すると、有名デパートの名店街に出かけて、うなぎ専門店の暖簾をくぐりました。

「うな重をひと口運んだら、涙がボロボロこぼれて来ました。生まれて初めて自分で稼いだお金で食事をしたのです」

びっくりした店主が飛んできました。

「なにかご不快なことがございましたか?」

殿岡先生が事情を話すと、店主が声を張り上げます。

「オイ、お造りをひとつお届けして」

早速殿岡先生のテーブルには、サービスでお刺身も運ばれてきたのです。

自分で稼いで寄付をしてみたい

実は殿岡先生は、名門のご令嬢でした。小さい頃は、誰もが「お嬢様」と呼ぶので、それが「私の名前だと思っていた」そうです。これは戦前のお話しです。

「書生さん、爺や、婆やたちがいないと、とても一家の切り盛りが出来ませんでした。父は人を差別しない主義なので、同じ屋根の下に住む者は同じ食事をする方針でしたし、お手伝いさんたちの手に霜焼け(あかぎれ)ができるのは、一家の恥だと言われていました。(満足な食事をさせず栄養不足だったり、冷たい水で洗濯をさせていたりするから、霜焼けになるなどと噂が出やすい世相でした)」

父は東京帝国大学(現東京大学)を卒業すると、イギリス、ドイツ、フランスに留学しました。

「家にはいろんな国からお客様が来て、様々な言葉が飛び交っていたので、私も自然に覚えてしまったのでしょうね。先生を招いて学んだのは英語だけです。父と母は、ドイツ語で秘密の会話をしていました」

結局父が留学した3ヵ国の言葉に加え、中国語とエスペラント語、それに日本語も併せて、6ヶ国語を駆使するようになっていました。

「おこがましい言い方になりますが、上に立つ者として躾けられてきました。特に自己中心的にならないように、人への気配りは強調されました。例えば“お水”と命じたら、決して(お手伝いさんに)持って行かせません。“お水をください”です。また持って来てもらっても“ありがとう”も言わずに口をつけようとしたら、ひったくってでも取り上げさせました。英語でも“May I ask you~?”ではなく、絶対に“Would you mind asking you~?”(前者はフランクな尋ね方で、後者は非常に丁寧な言い回し)でしたね」

戦後父は愛知大学を創設し、最高裁判所の初代事務総長に就任します。名門のご令嬢として育った殿岡先生は、箱入りのまま1度も外で働くこともなく、結婚をして家庭を守り続けました。

「人の出入りが激しい家でした。ですから人間観察は出来ていたと思います。またいろんな偉い占いの先生も来ていたので、ひと通りの知識は持っていました」

殿岡先生は、いつも思い描いていました。

「父がよく寄付をしていたんです。それを見ているだけの自分が、とても心苦しかった。いつか自分で稼いだお金で、その10分の1でも100分の1でもいいから寄付をしてみたかったんです」

殿岡 晟子先生

▲戦後暮らした愛知県豊橋市のご自宅。現在は父が創設した愛知大学の公館になっています。

一般社会への冒険

50歳を過ぎて、ようやくチャンスが到来しました。

「父と夫が相次いで亡くなったんです。今を逃したら、もう外の世界を覗くチャンスは訪れないと思いました」

そんな時に目に入ったのが、新聞に掲載された、わずか3行の広告記事でした。それが東明の手相教室だったのです。

「新宿御苑なので、それほど品の悪い場所ではない…、と思ったのです、夏の暑い日でした。サンローランの大きな帽子をかぶり、ワンピース姿で出かけました」

新聞記者が父の動向を探りに来ても、戦時中に空襲を受けても、まったく慌てた記憶がない先生ですが、この時が一番ドキドキしたそうです。

「道が入り組んでわかりにくいんです。角のタバコ屋さんに聞いてみて、もしわからなかったら引き返そうと思いました。でもここで戻ったら、一般社会を覗いてみたいという願いは、きっと一生かなわない。勇気を振り絞って進みました」

ようやく手相教室が開かれる小さなビルを発見し、タバコ屋で尋ねて、裏の小さなエレベーターに乗ることを確認します。

「本当に狭いエレベーターでした。フロアに着いて、小さなドアを開け、東明先生を見た時は、この人なんなんだろう、とびっくりしました。でも東明先生も(私の恰好を見て)驚かれたそうです」

創設間もない東明学院は、小さな教室に高さや模様も揃わない机や椅子が、取り繕うように並べられていました。

二重知能線通りの人生

やがて学院で学んだ殿岡先生は、いつも東明先生と一緒に鑑定に出かけるようになりました。イベントの主催者側は、よく勘違いをしました。

「東明先生、どうぞこちらへ。お連れの方は、少々お待ちください」

殿岡先生が毅然と否定します。

「いえいえ逆です。こちらが東明先生です」

本物の東明先生は、思わず苦笑いです。

殿岡 晟子先生

当時東明総研は、全国各地のテーマパークで鑑定をしていました。しかしいきなり日光江戸村での鑑定を任された殿岡先生は、まだ東武東上線に乗ったことがありませんでした。浅草駅に着くと、駅員に尋ねます。

「あのスペース・シャトルはどちらですか」

「??…。たぶんアメリカだと思いますが」

周りからクスクス笑いが漏れて来ました。

「お探しなのはスペーシアじゃないですか」

世間に出たことのないご令嬢は、こんな調子で冒険を続けていきます。

「みんなでワイワイガヤガヤ、いろんな場所へ出かけて本当に楽しかった。トイレのないようなところでも鑑定をしました。さすがに東明先生も、私を汚い寮に泊めるわけにいかないと、お考えだったようなので、私はホテルを取りました。でも私が部屋に入ると、1時間置きくらいに係がドアをノックしてくるのです。当時は女性が一人で泊まるのは、きっと自殺に違いないと疑われていたんですね。私は死んだりしないわよ!と、はっきり言いました」

世間に出たことはなくても、二重知能線を持つ殿岡先生からは、人を引き寄せるアイデアが次から次へと湧き出してきました。

「団体のお客さまがいらっしゃった時は、先頭のお子様を誉めるんです。グローブのような大きな手をした子なら“お手からお金が湧き出るタイプでございますね”。お母さまがご一緒なら“お姉さまも、いかがでございましょうか”とお誘いすれば“あら、私も見てもらおうかしら”ということになります。そう言えば、父も人を喜ばせるのが、とても上手でした」

東明先生は言います。

「もし貧しい家庭に育って、早くから仕事をしていたら、創業者として大成功したタイプです。世間に出ていなかったので、最初に会った頃は、運命線がなかった。ところが運命コンサルタントの仕事を始めたら、どんどんはっきりとしてきた。今では主役として花道を歩むほどのはっきりとした線になりました」

殿岡 晟子先生

▲日友好協会の孫平化会長が父の見舞いに。父本間喜一氏は、中国・上海にあった東亜同文書院大学の学長を務めました。

 

肉親並みの心づかい

殿岡先生は、世間に出てから、自分がすごく優しくなったと実感しています。今から振り返ると本当に悪かったと思うけれど…と、過去には高慢な一面があったことを教えてくれました。

「乗馬をする時に、足を鞍に乗せてくれる係がいました。ある時、少しだけ私の足に触れてしまったんですね。私は“無礼者!と、鞭で叩いてしまいました」

殿岡先生が続けます。

「昔は外出する時は、いつも白い手袋をしていました。でも今は素手で、なんでも触れるようになりました。東明先生と一緒に飲み屋街に出かけて、おかしなものまで食べられるようになったんです。父はボランティアや勉強なら、なんでも自由にやらせてくれた。しかし外へ出て仕事をすることは出来ませんでした。よもや私が歌舞伎町(新宿)で人々の手のひらを見ているなんて、想像もつかないでしょうね」

昔を想い起こし、しみじみとした口調でした。

「あくまで鑑定は冷静に行います。でもあとのフォローは、肉親に対するのと変わりません。時には生死にかかわる重いご相談もあります。そのためには漢方や多少の医学の勉強もします。男性の方は、数字を間違えたら2度と来ません。ですから日経新聞や株の書類にも目を通します。お客さまにとって、私は家族でも親戚でもありません。だから話し易いんです。私は時間をかけて、全てお話しをうかがいます。それでホッとされるんでしょうね。そして私の仕事は、未来に希望が持てる展望をさしあげることです。鑑定を終えると“ありがとうございました”とご挨拶をして、じっと後ろ姿を見送ります。振り向いて手を振ってくれる方もいれば、涙ぐんでいらっしゃる方もいる。私も一般女性の生活の厳しさも知りました。お手当は十分にして、お帰り頂くように心がけております」

世間に出てみると、よく周りから「殿岡さんには、わからないわよ」「殿岡さんは知らないのよ」と言われました。確かに銀行へ行き、3万円を下ろすつもりが、書き間違えて30万円を下ろしてしまったお嬢様です。しかし今では、一般人の心情や機微を誰よりも深く理解し、とても的を射たアドバイスを届け続けています。

「私が鑑定したお客さまは、みなさん結果を報告してくださいます。お礼の言葉が頂けるんです。どうしてこういう道を歩んだか、今でも不思議です。でも東明先生は、親にも怒られたことのない私を、時には冷たく突き放し鍛えくれました。きっとそれが良かったのでしょうね」

インタビューは、ボランティアとしての鑑定の合間に行いました。この日も殿岡先生の傍らには、過去に鑑定をしたお客さまからのお礼の贈り物が積んでありました。

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